大報恩寺について

沿革

創建当時の世相

大報恩寺が建立された13世紀前半の世相は、人々に「仏の教えが届かず」「仏法を実践する者すらいなくなる」という末法の世を強く実感させていました。12世紀末より全国規模で起こった源平の内乱、戦乱の最中に焼失した東大寺の大仏、たび重なる大規模災害、武家の台頭による王権の衰退。当時の世相は、人々の価値観が崩壊し、不安に満ちた、不確かな時代を強く印象づけるものでした。

永遠の釈迦、実践の場

こうした時代背景のもと、仏教の教主である釈迦の教えに立ち返ろうとする動きが強くなり、釈迦信仰が隆盛します。

天台僧の義空(1172〜1241)は、釈迦は永久にこの世に存在し法を説くとする『法華経』の教えにもとづいて、釈迦常住の地、霊鷲山(りょうじゅせん)をこの地に創生し、末法の世に生きる人びとの救済を構想して、承久2年(1220)大報恩寺を開創しました。

また、嘉禎元年(1235)には、義空は倶舎宗・天台宗・真言宗の三宗を隅々まで布教し、天下が幾久しく続くよう祈願することを天皇に奏上し、これが認められ、大報恩寺は天皇のお墨付きを得た御願寺となります。

末法の世にあった多くの人々が、天台宗の戒律を受け、天台宗の根本経典である法華経の講義に結縁するため門前に集ったと言われています。

千本の釈迦念仏

二世の澄空は、お釈迦様の最期の教えである遺教経(ゆいきょうぎょう)・舎利供養式を声明として唱え広めることに努め、文永の頃(1264〜1275)多くの僧衆が声をあわせて読誦するそれまでにない新たな声明、いわゆる千本の釈迦念仏を創始しました。

この出来事は当時、大変話題になったようで、吉田兼好の『徒然草』(228段)で「千本の釈迦念仏は、文永の比、如輪上人、これをはじめられけり」との記述に残っています。

時代とともに800年

正安元年(1299)朝廷から「四海安全」を祈願するための「法華三昧之勤行」を命じられます。この天皇家からのあつい帰依によって、「仏法・人法」興隆の寺として揺るぎない地位を確立します。

南北朝から室町時代にかけては、遺教経会や万部経会を差配することで足利将軍家から破格の待遇を受け、以降、幾多の戦火・災害に遭遇しますが、それぞれの時代に対峙しながら創建以来の想いを脈々と受け継ぎ現在に至ります。

幾多の戦火を免れた洛中最古の本堂は、檜皮葺きの屋根は近隣の住宅に静かに溶け込み、人びとに開かれた寺として、京都を南北に貫く千本通りのそばにあることから「千本釈迦堂」の通称で親しまれています。

おかめ塚

おかめ塚の誕生まで

貞応二年(1223)、大報恩寺の本堂建立の際に、当時、高名な工匠の長井飛騨守高次が棟梁として造営を請負いました。

造営の最中、高次は過失により信徒寄進の貴重な柱を誤って短く切ってしまいます。善後策に奔走するも一向に解決の目処が立たずに苦慮の日々を過ごすなか、妻のおかめはいちはやく夫の苦衷を察し千々に心を砕き、仮堂安置のご本尊に事態の解決を願って昼夜の祈りを始めました。

7日目の早暁、お堂の厨子の中で、光り輝いている枓栱(ますがた)を膝に抱いた御仏のお姿を見てハッと我に返ったおかめは御仏から授かった思いつきを夫に打ち明けます。

「全部の柱を短く切り揃え、その柱の頂上に枓栱をつけて誤って切ってしまった分を補えば」と助言しました。

高次は天啓とばかりにこの案に従い施行をすると、それは予想外の成果をおさめ、ゆるやかな屋根、どっしりとした安定感を持った骨組みに仕上げることができたのです。

ハレの日に

安貞元年(1227)12月26日、盛大な上棟式が行われました。しかし、ハレの日におかめの姿はありませんでした。

天啓があったとはいえ、自分の助言で本堂が落成したとあっては、夫の面目を潰れとなり棟梁としての名誉も消えさると案じたおかめは、上棟式の前日、意を決しあわれにも自刃して果ててしまったのです。

おかめの自刃と信仰の広がり

高次は妻の心を思いやり、翌日の上棟式において御幣の先に今は亡きおかめの面をかざり、彼女の冥福を祈ったそうです。今日、上棟式の御幣におかめの面をつけるのは、この故事によるものといわれています。

また、施主である義空は、その成り行きを伝え聞き、おかめの徳を称えて境内に塚を建てて供養したといわれています。

時が経ち、人々はその塚を「おかめ塚」と呼ぶようになり、この大報恩寺に端を発し江戸中期頃から「おかめ招福信仰」が全国に広まったといわれています。

今日では、おかめの信仰は更に拡大され、毎年の節分において招福のおこないとして、おかめ福節分会が年々盛大におこなわれています。また本堂には全国から奉納された千余点のおかめ人形を展示しております。